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濃いするシェイクスピア [鑑賞]

Colin Firth祭りである。

未購入の「恋に落ちたシェイクスピア」を観る。筋立てはタイトルそのものであって、演劇好きの金持ち娘と恋に落ちたスランプ中のシェイクスピアが、「ロミオとジュリエット」を書き上げ、上演するまでの話である。金持ち娘は演劇好きが高じ、かつらに男の服で、男優としてオーディションを通過、ロミオ役をまんまと射止める。当時は女が演劇の舞台に上がることは禁じられており、その為演技を志す者は男装せざるを得ぬという訳である。当初は男と思い込んでおったシェイクスピアが、役者が実は女であったことを知るに及び、俄然恋愛に爆走し逢引に励む。一方金持ち娘は、親の肝いりで貧乏貴族との婚姻を余儀なくされている身である。つまりこの恋愛は時限関係であり、途中で皆に正体のバレた金持ち娘は一旦役を降り、仕方なくシェイクスピアがロミオを演ずるのであるが、ジュリエット役の女形が、当日声変わりとなったため、結婚式から逐電し劇場に来ていた金持ち娘は居ても立ってもおられず、ジュリエット役を演ずる。こうして、観覧に来た女王エリザベスの前で、主役カップルがロミオとジュリエットを演じ、粋な女王は金持ち娘をあくまでも男優として扱い、目こぼしする。時限関係の恋愛はこの時点で終わりを告げ、金持ち娘は夫となった貧乏貴族と共に北米大陸に渡り、シェイクスピアは金持ち娘と同じ名の娘を主人公に、「十二夜」の執筆に入り、物語は終わる。さてColin Firthであるが、このかなり道化な貧乏貴族の役である。本人が特典映像にて語って曰く、この男の人物造型は、エリザベス一世時代のJR(とは'80年代米連ドラ「Dallas」の主役)であるという。言い得て妙である。演ずる側としては、JRはそれなりに楽しいものであったろうし、見る側もそれなりに面白くはあるが、敢えてColin Firthがやる程の役であるかについてはちと疑問が残る。この映画のキモは、むしろ少ない出番で圧倒的存在感を見せる女王エリザベスであろう。シェイクスピアは、濃い。余りにも濃い。ラテン系と見紛う程に濃く、個人的には余り有難くない。また、金持ち娘は、薄い。北欧系かと見紛う程に薄く、可愛らしくはあるが、これもちと、個人的には余り有難くない。娯楽映画としてはなかなか良く出来ていると思われるが、うーむ、これもDVD購入はいつになるであろうか......。


夏のひと月 [鑑賞]

Colin Firth祭りである。

購入せし日本盤DVDの中から、邦題「ひと月の夏」を観る。原題はA Month in the Country(田舎のひと月)という。これがなかなかに佳作であった。第一次大戦の帰還兵である主人公は、戦地のトラウマに悩まされ、妻は浮気女で帰ってみれば別の男とよろしくやっており、全く気の毒な状況である。彼は壁画の修復を生業としており、仕事で田舎にやって来る。その田舎でのひと月の話である。物語自体は非常に淡々としたもので、展開を追うといったものではなく、時間が静かに過ぎる。Colin Firthはこの作品が初主演であるが、本人も誇りにしている仕事のひとつだというだけのことはあり、非常に潔い。田舎の牧師の妻と憎からず思い合うが、結局指一本触れ合うことなく別れて行くあたり、潔い演技と相俟って、非常に美しきものであるが、この牧師の妻が、かつてグラナダTVの「シャーロックホームズの冒険」で「ぶな屋敷の怪」に出ていたナターシャ・リチャードソンであって、妙に懐かしきものがあった。また、同じく戦地のトラウマに悩まされつつ近所で発掘作業を行なっている青年は、若き日のケネス・ブラナーであった。この青年は、戦地より帰還するまでの最後の半年間、同性愛行為発覚のため営倉にぶち込まれていたという。流れからすると、同性しかいない為同性愛行為に及んだのでなく、どうも同性愛者であるらしい。人柄の良い男だけに、同性愛者ゆえの孤独が微妙ににじむ、明るき中に哀切を含んだ演技が見事であった。肝心のColin Firthも、淡々と仕事を進め、時にブラナーと互いの仕事場を訪問し合いつつ、トラウマを徐々に癒してゆく過程を見事に演じ切っており、秀逸である。後味良き映画であった。


イングリッシュ・ペイシェンス [鑑賞]

Colin Firth祭りである。

一端祭りとなると、上を下への大騒ぎであって、日本で発売されているDVDはおろか、日本で出ておらぬ作品(実はその方が遥かに多い)のDVDと、そもそもDVD化されていない作品の中古VHSをamazon.comで、その他TV放送分はeBayでと、とにかく購入しまくる。おかげで恐ろしきことに、舞台劇とラジオドラマを除く全ての作品が、見かけ上はほぼ揃ってしまった。3月発売予定の廉価盤を予約したりしているので、実際に手元にあるのはまだ半分ぐらいなのだが。リージョンフリーのDVDプレイヤーも購入した。一体これで幾ら使ったか、恐ろしいのでカード利用実績を見ぬようにしている。
さて、その中にあって、未だ購入しておらぬ2作品を、まずはTSUTAYAにてレンタルし鑑賞した。初めは「イングリッシュ・ペイシェント」である。英米の音楽CDなどにも言えることであるが、この英語の題名をベタでカタカナにするという、その意図は一体何なのであろうか。「シカゴ」や「タイタニック」のように、そうする以外どうしようもなき場合はともかく、カタカナ英語でベタ表記したところで特別印象的な訳でもなし、素直に「英国人の患者」とした方が余程興味が沸くものと思うのであるが。大体「ペイシェント」と言ってピンと来る日本人はどれ程いるのだ。或いは、よくわからぬようにするのが目的か。
題名はともかくとして、わが身はこれを以前確かにレンタルして鑑賞したことがあったが、鑑賞したことは憶えておれど、肝心の内容は、殆ど記憶になく、増してColin Firthのコの字も憶えてはおらなんだ。何故か。忘却の理由は、鑑賞する内に思い出された。要するに、肩すかし映画だったからである。
先の大戦前夜のアラブ圏における、大仰且つ深刻な状況を背景に、「英国人?」満身創痍男の記憶が語るのは、何のことはない、不倫の話であった。満身創痍男は、東欧の伯爵であり、英国王立地理院会員であるところから、英国の考古学発掘隊と共にアラブ圏の地図を作成中である。この頃既に飛行機が地図作成の主流になっていたらしく、助っ人パイロットとして参上する英国人が、Colin Firthの役どころである。この男、実はパイロットは本業ではなく、政府の特務を帯びてカイロに駐在中なのであり、カモフラージュのためか、妻を同伴しての駐在である。東欧の伯爵はこのパイロット妻に懸想し、結局二人は不倫関係となり、特に東欧の伯爵がのめり込む。一方パイロットは、結婚記念日に妻を喜ばせようとタクシーにて早めに帰宅、家のすぐ近くまで来たところで、夫は今日も遅いと思い込み、めかし込んで逢引に出かける妻を目にすると、そのままタクシーで追跡し、妻の不倫を知る。この不倫自体は、パイロット妻が東欧の伯爵の余りののめり様に恐れをなして(なにしろ一緒に仕事をしている親友英国人にさりげなく注意される程、不倫していることが周囲にバレバレなのめり様であるので)、関係終了宣言し、以後しばらく会う事はない。その間東欧の伯爵は、のめりにのめった対象を失い煩悶しつつ仕事を続けるが、いよいよ大戦が決定的となったため、キャンプ撤収にかかる。他の者が全て撤収した後、東欧の伯爵が最終片付けを終えて迎えを待っていると、その迎えであるところのColin Firthパイロットは、飛行機に妻を同乗させて飛来、東欧の伯爵の目の前で、飛行機は墜落する。パイロットは即死、パイロット妻は瀕死の重傷を負うが、東欧の伯爵はパイロット妻を機体から連れ出し、二人の思い出の場所である壁画洞窟へと運ぶ。パイロット妻は東欧の伯爵に、夫は死ぬ気だった、(自分に)愛していると叫んで飛行機は落ちた、と告げ、墜落が無理心中であったことが明らかになる。そも、二人乗りの飛行機に妻を同乗させて来るからには、パイロットにはもともと東欧の伯爵を拾う気はなかった訳である。
一方ウィレム・デフォー扮する情報屋が、Colin Firthパイロットの所属するカイロの事務所に出入りしていたのだが、開戦に伴う移動の折、ドイツ軍に拘束される。正体がバレたのは、東欧の伯爵が、情報をドイツ軍に流出させたからであった。結局情報屋は、拷問で両手親指を切り落とされてしまい、アタリマエだが、東欧の伯爵を深く恨み、満身創痍男と化した東欧の伯爵を見つけ、つきまとう。そしてある日遂に自分の正体を明かし、情報を売ったその行為の説明を求める。なにしろ、情報をドイツ軍に売ったのが東欧の伯爵であると知り、キャンプを共にしていた親友英国人は自殺してしまったのである。満身創痍男は、その大怪我故に記憶も曖昧であったのだが、外部からの情報刺激に徐々に様々な事柄を思い出して来ており、ここに至ってその前後の事情が明らかになる。つまり東欧の伯爵は、重体のパイロット妻を助けたき一心にてあらゆる手段を講じ、遂には移動手段を手に入れるため、撤収のためまとめてあったキャンプにドイツ軍を連れて行き、情報を売り渡したのである。これには数日を要し、必死で洞窟に戻った東欧の伯爵を待っていたのは、パイロット妻の死体であった。この女は、自分をどこそこへ埋葬されたしとの希望を書き残しており、東欧の伯爵は、それを実現すべく死体を飛行機に乗せて飛ぶのだが、ドイツ機であったが故、撃墜され、東欧の伯爵が「英国人?」満身創痍男となるのである。これが映画冒頭のシーンにつながるのだ。
さて、趣味によってはこれを大悲恋の傑作と感じる者もいるやも知れぬが、われにとってこの映画のどこが肩すかしか。中途半端さである。東欧の伯爵は、他人の女房に頭からのめり込んでいる割に、パイロット妻に去られても、全てを放り出して追いすがることをせぬ。パイロット妻はパイロット妻で、亭主を放り出して東欧の伯爵に走る気もない割に、記念の品(東欧の伯爵が露店にて購入せし指ぬき)をこれ見よがしに首からぶらさげ続け、亭主を苦しめ心中へと駆り立てる。親指を失った情報屋は、満身創痍男が事情を明かすや「晴れ晴れとした」とぬかし、極秘情報を売り多数の英国人を危機に陥れ、親友を自殺に追い込み、不倫相手の亭主を絶望の無理心中に向かわせ、結局は当の不倫相手すら死なせる破目となり、おまけに己が両手親指を奪った輩をあっさりと許す。わが身が情報屋であれば、「お前の不倫相手の命がなんぼのもんじゃい」と、逆に怒髪天をつくところである。この映画には、徹底がない。どいつもこいつも中途半端である。これが中東のエキゾティシズムと戦争を大道具にせず、舞台を現代の東京やロンドンにしたとすれば、単なるソープオペラの域を出ぬ。唯一徹底していたのが、妻の不倫ごときで無理心中をやらかすColin Firthパイロットであるとは、うーむ、このDVD、購入したものかどうか。まあ結局は購入することになるではあろうが、購入したっきり二度と鑑賞せぬような気がする。長丁場のこの映画、わが身にとってはひたすらpatience(忍耐)の一語に尽きたことであった。


楽観と偏見 [鑑賞]

年始である。

12月は激忙であったため、12/30からの休暇中は殆どへろへろ状態であり、1/4までの6日間の全てをへろへろのまま過ごす仕儀となった。1/5の出勤の後は、またぞろ3連休と相成った訳であるが、6日間を無為に過ごしたがため、この3連休で大掃除等、多忙を極めた。

6日間の収穫としては、スカパーCinefilでBBC版「高慢と偏見」を再度鑑賞したことくらいである。
さて、この「高慢と偏見」であるが、以前NHKで放映した際は、楽しく観たものの録画をしておらず、残念に思ったことであった。今回もまた漫然と観はしたのであるが、これから再放送があるので、自宅機器が当時とは違いDVDとなったことでもあり、今度こそは録画出来るものである。昨年であったか、「プライドと偏見」という映画があったが、これはBBC版と原作を同じくするものである。但し、原題はPride and Prejudiceなので「プライドと偏見」で良いのだが、一方の主人公が見せる高飛車さは、プライドの為せる業というよりは、高慢と言った方が近く、故に原作の訳名でもある「高慢と偏見」の方が、和訳タイトルとしてはふさわしきものと思われる。BBC版のキモは、何といっても一方の主人公「高慢なダーシー氏」を演じるColin Firthである。もう一方の主人公「聡明なエリザベス」を演じる渡辺えり子(似の女優)も良い。また映画と違い2時間x3回の作品であるから、内容も消化不良にならず、よく出来ている。シャーロック・ホームズの長編や修道士カドフェルのシリーズも、出来ればこのように3回くらいで完結するようにしてもらえれば、大はしょり大会やストーリーの勝手な変更などせずに済むであろうに、惜しき事である。
修道士カドフェルといえば、スカパーのミステリーチャンネルで放映中である。かねてより固有名詞をどう発音するのか気になっていたので、今回は原語で見てみたのだが、そもそもカドフェルからしてカドファエルであった。綴りがCadfaelであるから、そりゃ当然であろうが、「カドフェル」で刷り込まれた身としては、これに慣れるのに少々時間を要した。また、べリンガー夫人は、訳本ではアラインとなっているのだが、アリーンであった。こちらの方はもともとアラインという音の方を訝しんでおったので、やはりそうであったかとすんなりと納得した。それにつけても、外国人にとって固有名詞の読みは、紙の上の綴りからは俄かに判別し難きものであり、まこと翻訳の際の苦労のひとつである。
話を戻して、Cinefilでは「高慢と偏見」の後、「ブリジット・ジョーンズの日記」という映画も併せて放映した。この作品の原作者は、「高慢と偏見」を見てColin Firthのダーシーをいたく気に入り、「ブリジット・ジョーンズの日記」においてその名とキャラクターを拝借し、映画でもダーシー氏を当然Colin Firthが演じている。2作品を続けて観、時代設定こそ違えど男主人公が同じ名で同じキャラ(但し後者はお高いが高飛車ではない)、それを同じ俳優が演じるというのを見るのはかなり奇妙なものである。尤も、「.....日記」の方は現代の話で、女主人公ブリジット・ジョーンズは、「高慢と偏見」の聡明なエリザベスとは似ても似つかぬ通俗的な馬鹿女であるから、作品のカラーは自ずと違ったものではあるのだが。ジョーンズは32歳未婚、出版社のマーケティング部門に勤務する、仕事の出来ぬアタマの悪い太めのOLなのであるが、何故かこれが4歳上のイートン→Ox/Bridge卒の超一流国際弁護士の長身美男(これがダーシー氏だ)に懸想され、おまけにその男と大学の同輩でジョーンズの上司である遊び人美男(これはHugh Grantで、まさにはまり役であった)とでジョーンズの取り合いになるという、30年前の少女マンガかと錯覚するようなストーリーが展開される。これは女性の圧倒的支持を得た映画だというので、てっきり女性はColin Firthに参ったのであろうと思っていたが、さにあらず、ジョーンズに共感と可愛さを覚える女性の支持が多いのだという。ジョーンズの余りの馬鹿振りには、眩暈がするほどなのであるが、要するに世の女性は、「馬鹿で太めで十人並みの容貌で努力も苦手な女を、白馬に乗った王子が迎えに来る」という図式をいまだ夢として抱えているらしい。言い換えると、「仕事も出来ず馬鹿で太めで十人並みの容貌で努力も苦手なアタシだけど、お金持ちのエリート美男が懸想してくれる」ということである。世の中の人間の大半は、十人並みで努力が嫌いであるから、こういう主人公の方が自己投影しやすのであろうか。実際、才色兼備のねーちゃんが成功するのはアタリマエであって、チャングムの誓い宜しく派手な紆余曲折を経でもしない限り、映画にならぬといえばならぬから、こういうストーリー展開もアリかも知れぬ。また、確かに多少馬鹿な者は可愛い。太めの女も悪くなかろう、単なる個人の嗜好の問題であるからして。しかし個人的感覚から言うと、仕事の出来ぬ者は、男女に係わらず同僚としては大迷惑であり、度を越した馬鹿者は、友人グループの一人(モブの一員)としてならともかく、親しき友や恋人としては、一刻も早く手を切りたき存在である。余りにも場違いな行動・言動を繰り返すジョーンズにダーシーが懸想し続けるというのが、いかにもあり得なさそうなことであって、鑑賞の間わが身はひたすら首を傾げるばかりであった。わが身がジョーンズの恋人であったら、じき気が狂うこと請け合いである。それとも、ここはこの男の忍耐力というか感性の耐久力を讃えるべきなのであろうか。まこと、ナゾの映画であった。


RIP吉村昭 [鑑賞]

2006年もあとわずかである。

われ個人における今年の大事件のひとつに、吉村昭の死がある。母親も兄も弟も癌で死んでいる吉村は、やはり癌で逝った。最後は自宅療養で、自分でチューブ等を引き抜き、家族に「死ぬよ」と声をかけたというが、何とも吉村らしき最後である。心より冥福を祈る。
吉村の死を知り、久し振りに何か読もうと考え、心臓移植を扱った2作を読み返した。最初は本編とも言うべき「神々の沈黙」を読んでいたが、やはりサイドレポである「消えた鼓動」にも手は伸びた。吉村のすごいところのひとつは、徹底的な調査である。彼は作家である訳だが、そんじょそこらのサラリーマンジャーナリストでは及びもつかぬ調査報道(彼においては、報道ではなく作品である訳だが)をやってのける。それが彼の手法であると分かってはいても、毎度圧倒的な迫力に溜め息が出る。2作を読み終えた後、心臓移植を追って渡辺淳一の「白い宴」も再読したが、「神々の沈黙」の読後の「白い宴」は、なんとも腑抜けた感じであった。筆力の差は致し方ないにしても、当時札幌医大に実際に属していた渡辺が、殆ど内部告発のように書いたにしては、全く切迫感がない。吉村の、対象に肉薄する醒めた視線に対し、渡辺のそれは、どこかおどおどしているの感がぬぐえぬのだ。まあそもそも基本が、硬質かつ峻厳な作風の作家(吉村)と親父向けエロ小説書き(渡辺)であるから、比較にならぬのは当然だが。
吉村の作風を「硬質かつ峻厳な」と今書いたが、何も石部金吉な訳ではない。初期の短編は、非常に微妙に怖い話が多い。初期短編におけるわが身の気に入りは、「少女架刑」「蘭鋳」他多々あるが、分けても「蘭鋳」は、いびつなエロスを硬質かつ峻厳に描くという怖さの際立つ作品である。


騎士 [鑑賞]

ルーヴル美術館展に出掛けた。

ルーヴルといえば、モナリザを始めとして枚挙に暇無き有名品の揃う美術館であるが、今回は地味にギリシャ・ローマ彫刻の展覧会である。それというのも、ルーヴルのギリシャ・ローマ展示室だか展示館だかが大規模工事を行なうので、その間の保管料を浮かせ、且つ貸出料を得られるという、これはルーヴルが一石二鳥を狙った企画なのである。さすがにおフランスは抜け目ない。
会場の芸大美術館は、芸大の敷地の一角にあり、こじんまりとした美術館である。順路はまず地下一階、次にエレベータにて三階(だったと思う)に上がる。地下一階は、まあよくある美術館の感じであるのだが、三階は、採光の優れた高い天井を持ち、自然光による明るい室内になっており、彫刻を見るに最適な環境であった。欧州の美術館などにはよくあるが、東京の美術館としては、この芸大美術館三階が、彫刻を見るには最も宜しい気がする。明るい室内で見る彫刻は、肌の柔らかな白色と丸みを帯びた線を際立たせ、大変に美しい。好評と聞いていたので朝一番で出掛けたのが功を奏し、客がまばらで、彫刻に近づいて細部を見、また距離をとって周囲をじっくりと廻るという、理想的鑑賞が可能となり、堪能したことである。特に気に入った彫刻については、人工衛星の如く何度も周囲を廻って楽しんだ。
この時期の彫刻の見所は、なんといっても裸体の美しさであろう。男性像は戦士やアスリートが主題であるが、この頃のアスリートは全裸で競技を行なったということもあり、実にしっかりと重量感溢れる筋肉がついており、素晴らしい。一方、数少ない少年像は、伸びやかな細身であり、一種女性的などことない頼りなさが魅力的であった。また、頭部のみというのも多いのだが(最初から頭部のみなのか、とれたのかは不明)、これもなかなか美しいものが多かった。白眉はガニュメデスの頭部で、なるほどゼウスがさらって行きたくなるのももっともであると納得させる美しさであった。全身像の方は、蛇だかトカゲだかを殺そうとしているアポロンの少年像が秀逸。この二体(片方は体はないが)は、現物が大変美しかったので、絵葉書でも買おうと思い、鑑賞後にショップに行ったところ、残念ながら展示品としては注目されない部類に入っていたらしく、両方とも売っていなかった。勿論図録には載っているが、幸い図録の写真は二体とも全然美しくなく、何千円も出す必要を感じなかったので買わずに済んだ。女性像では、ポスターやチケットで使われているアフロディーテ(だったか何だったか)がやはり一番良かったが、一番良いものはポスターやチケットにせぬ方が良いように思う。実際に行って、なんだ要するにこれ(一番良い品)だけじゃないかと思われがちだからである。
彫刻は、大抵の場合掘り出されてくる訳なので、指先、鼻、男性器、女性の乳首など、細いでっぱりが欠けた状態で発見されることが多い。今回の展示品では、鼻や指などに復元が施されたものは少なくないが、面白いことに、男性器は全く復元されていない。しかも同一個体でも、鼻や指は直してもらえているのに、ちんちんは100%もげたままである。個体差がありすぎて復元しにくいのであろうか。ナゾである。また、成人男性像はどの個体も、肉体美を誇る男子でありながら、全員ホーケーであった。当時はホーケーの方が美的とされたのであろうか。又は「女とは交わっておりません」という、いわば穢れなさの象徴であったのであろうか。ナゾである。英語では、ムケたものをroundheadという。まんまである。逆にムケていないのをcavalierという。これは元々フランス語で騎士の意味であるが、なぜホーケーを騎士(しかもフランス語)と称するかは、わが知識では不明である。ホーケーはまたuncutとも言うのだが、これは割礼していない、という事で分かりやすい。ギリシャ・ローマの皆さんは、なぜ騎士なのか。実にナゾである。


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